渓流幻想

不帰（かえらず）の淵

柳原　釣童

不帰（かえらず）の淵

（一）

そこは東北の山奥、東北有数の大河･阿賀野川のとある支流を遡行していたときのことである。とあると言うのは、彼は疾うに道を見失って、そこが何処だか分からなくなっていたからである。彼は県道から分かれて、その支流沿いに付けられた林道を1時間以上も車を走らせていた。実は、彼はある渓を目指してやって来たのだが、車で仮眠を取り、眼が覚めて川の様子見ると、川は遅い雪代なのかよく分からないが白濁し増水していて釣りにならなかった。そこを諦めてあちこちと彷徨（さまよ）った挙句、適当にこの川を見つけて上って来たのである。

彼の名前は三木敏彦。東京在住の会社員で年齢は35歳である。金曜日に休暇をとり、木曜日の夜から車を走らせて、今朝早く所期の目的地に着いたのだが、目算が外れて転進を余儀なくされたのである。6月中旬の、朝からよく晴れてかなり暑い日であった。

林道は砂利が敷かれているが、荒れて、ところどころ轍の跡で深い溝ができていた。道路は果てしなく奥へと続いている。彼は樹々の隙間から見える渓を覗きながら、良さそうなポイントはないかと探し回った。

林道が川に近づいた。彼は道端に車を止め、車を降りて流れの様子を見た。大小の落ち込みが続く好渓で、川幅は10ｍ位か、水量はまずまずで、ところどころ流れの中から岩が頭を出していて、ポイントも数多くありそうな感じだった。

時計を見ると午前10時を回っていた。もう何時間もロスしてしまっている。彼は早速釣りの支度をして、潅木や、野草を掻き分けて左岸の河原に下りた。対岸（右岸）は崖になっていて、崖はそのまま這い上がって300ｍほどの山の中腹にまで達していた。

彼は落ち込みでは脇の巻き込みとか、白泡の消える辺りなどを重点的に狙った。瀬は水深のある流心や、流れから頭を出している岩の裏などを主に狙い、対岸に良いポイントがあれば、流れの中ほどまで立ち込んで、岩壁沿いとか、渕の巻き込みとか、泡が密集しているところがあればその泡の中にフライを投げ入れた。フライは、主に蛍光オレンジのアント･パラシュート＃12や、グリズリー・ウルフ＃10を使用した。型の良いイワナが立て続けにヒットし、遠路はるばるやって来た甲斐があったわいと、三木は密かにほくそ笑んだ。

500ｍほど遡った。イワナの当たりは順調だった。時計を見ると正午を回っていた。三木は、一服して昨夜、途中のコンビニで購入したおにぎりとお茶を、ベストの背ポケットから取り出し、河原の石の上に腰掛けて昼食を摂った。彼はおにぎりを頬張りながら、改めて周囲を見回した。両岸の山が間近に迫り、渓は深まっていた。川の勾配がきつくなり、流れが速くなっていた。上流を見ると、100ｍほど先で渓は大きく左へ曲がっている。

食後釣りを再開した。先ほどまでより流れがきつくなり、落ち込みの落差が大きくなった。魚影の濃さは相変わらずで、型も一段と良くなった。先ほど見えたカーブを曲がると、前方30ｍほどのところに高さ2ｍほどの堰堤があった。彼は釣りを続けながら堰堤に近づいていった。堰堤下のプールは、期待したほど水深がなく、小型が1尾ヒットしただけだった。堰堤を見あげると堰堤の上に、両岸から4～5本の有刺鉄線が張り渡されていた。少し引き返して道路に出て、近寄って堰堤を見た。堰堤の両側に、四角い鉄柱が立っていて、有刺鉄線はその間に張られものだった。

三木は以前、これと同じ光景を見たことがあった。記憶を辿っていくと、かなり昔のことだが四国の海部川の源流でここと同じ様に堰堤に柵が取り付けてあったことを思い出した。あの時は有刺鉄線ではなく、金網だったと記憶している。あの柵は、一体何のための柵だったのか、今でもその理由が分からない。

三木はゆっくりと有刺鉄線に囲われた堰堤を眺めた。ふと、道路側の鉄柱の前に看板が立てられているのが眼に入った。それには次のように書かれていた。

「危険!!!　入渓禁止　この先　不帰（かえらず）の淵。

淵に落ちて生還した者無し」

三木は、随分奇妙な看板だな、と思った。そもそも誰がこの看板を立てたのか。漁協なのか、村役場なのか。看板には誰の名前も書かれていなかった。

三木はとりあえず淵の様子を見たいと、渓沿いの林道を上り始めた。林道は急に角度を上げて渓から離れていった。林道を200ｍほど登ったところから、渓を覗いてみた。渓は30ｍほど下に見えた。川幅が広がり大きな細長い淵があった。不思議なことに淵の上流には大量の水が流れ込んでいるのに、淵の下流では水量が半減していた。よく見ると、淵の中ほど少し下流で、渦が巻いているのが見えた。水があそこで地下に吸い込まれているのだろうか?

三木は淵を間近に見たいと思った。彼は柵のところまで引き返した。彼は決して豪胆な男ではない。どちらかと言えば用心深い性質（たち）だった。この看板を見て不安にならなかった訳ではなかった。しかし、彼は好奇心が非常に旺盛だった。何処か侵入できるところはないか探すと、鉄柱と道路側の崖の間に少し隙間があった。彼はベストの胸ポケットや、背中のポケットに入れた雨具などが膨らんで、狭い隙間を通る邪魔になったので、ベストを脱ぎ手に持って隙間を通過した。

堰堤の上は砂利が堆積して、水量は少なかった。どうやら砂防堰堤らしい。左岸は取り付く島もない切り立った崖が続き進めそうもないので、三木は対岸（右岸）に渡り河原を上流に歩いて行った。危険を感じたら即座に引き返すつもりだった。暫く歩くと水量が復活し、渓相が良くなった。

彼はロッドを出さず、上流の淵へ直行した。淵は下流では想像もつかないほど雄大で堂々としていた。見ると、淵の中央よりやや下流で反時計回りにゆっくりと渦が巻いている。渦をよく見ると、大きなイワナが数尾、流れに乗って泳いでいるのが見え隠れしていた。

淵尻から5ｍほどは浅い砂礫の川底だったが、その先はどんと深くなっていた。淵の右岸も崖で3ｍほどしか先へ進めない。足元をよく見ると、水面すれすれに岩棚が張り出し先へと延びていた。三木はその岩棚を歩いて前へ進み、アント･パラシュートをイワナの50ｃｍほど上流に投げた。イワナはぴくりとも動かなかった。まったく興味を示さない。ならばと、彼はフライをクイル･ゴードン＃14に替えてみた。イワナはクイル･ゴードンに興味を示し、尾でフライを叩いたり、フライの傍で口を開けたりした。なんだかこちらを揶揄（からか）っているように思われた。彼は、ガガンボに似せた＃14のクレーン・フライをキャストした。流れの石裏に群れてへばり付いているのがガガンボであり、シーズン当初から終期まで最も多い水生昆虫はガガンボで、謂わば渓魚のご飯みたいなものであると三木は思っている。

三木はクレーン･フライを投げて、イワナの眼の前で少し動かして見せた。イワナは堪らず食いついた。イワナは猛烈な勢いで水底に駆け込もうとする。物凄いパワーである。三木はラインを手繰るのを止め、ハンドルでリールを操作した。しばらくやり取りをしていると、何と言うことか、イワナが5～6尾、鉤に掛かったイワナの周りに集まって来た。そのうちの1尾が鉤に掛かったイワナの尾鰭を咥えたではないか！ロッドにずっしりと重みが加わった。それからまた別のイワナがそのイワナの尾鰭を咥えるという具合に次から次へと自分の前のイワナの尾鰭を咥え、5尾のイワナが数珠繋ぎになった。以前、木からぶら下がった蛇の尾に噛み付く、数珠繋ぎのイワナの話を民話では読んだことがあるが、そんな信じられないことが目の前で起きたのである。

このままじゃ淵に引き込まれる、三木は身の危険を感じた。そしてリールのハンドルから手を離した。リールがギィーと鋭い音を立て、ラインが勢いよく出て行った。バックラッシュを避けるため、左手の人差し指でスプールにブレーキを掛け、彼は急いで岩棚を引き返し浅瀬に戻った。

浅瀬に立って、魚が掛かっているのを確認し、素早くリールを巻いた。イワナたちは、ラインが緩んで安心したとみえ咥えていた尾鰭を離したらしい。鉤に掛かったイワナが寄ってきた。かなりの大物である。続いて10尾近いイワナが鉤に掛かったイワナを追ってきた。三木は素早くイワナを頭からネットで掬った。大型のネットからはみ出した尾鰭には歯型の傷が付いていた。60センチ近い大イワナである。追ってきた大イワナたちは少し離れたところで、放射状にずらりと三木の方に頭を向けて取り巻いている。まるで三木を睨んでいるようだった。三木はぞっとした。頭の毛が逆立っているのを感じた。三木は手に掴めるだけ小石を掴んでイワナの群れをめがけて投げつけた。イワナたちは驚いて四散し、淵の底へ姿を消した。

三木は釣れたイワナをネットに入れたままごく浅い流れに運び、メジャーでイワナの体長を測った。体長は58ｃｍあった。湖以外ではこんな大物を釣ったことはない。三木は迷わずキープして剥製にすることにした。ベストのポケットから、フィッシング・ナイフを取り出した。ピューマ社製の、刃を拡げると天秤になり2.5ｋｇまで量れる優れものである。柄の端には、錘用に直径3ｃｍの鉄製の丸い玉が付いている。これでイワナの頭を一撃して野締めしようと思ったのである。ネットの上からイワナの頭めがけてナイフの錘を振り降ろそうとした瞬間、「助けて」と言う叫び声が聞こえた。若い男の声である。

三木は驚いて辺りを見回した。周りには人影はなかった。「助けて下さい」と再び声がした。ネットの中から声が聞こえる。声は震えていた。三木はイワナを抱えてネットから頭を出してやった。

イワナは浅瀬に体を横たえたまま、口をパクパクさせていた。イワナは三木が危害を加えないと分かって落ち着いたのか、静かに喋り始めた。

「実は私は以前は人間でした。名前を佐藤修と申します。東京の会社員で、3年前30歳のとき、私はここで釣りをしていて、岩棚から足を滑らして淵に転落したのです」。

佐藤を名乗るイワナは、一息ついてまた話を続けた。小さいが、よく透る声であった。

「淵の底は、大きな一枚岩の岩盤で、底に割れ目があって淵の水を大量に地下に呑み込んでいます。私は渦に巻き込まれ、その穴に足を取られてそのまま意識が無くなりました。次に眼が覚めたとき、私の体はイワナに変わっていました。さっきの仲間のイワナたちも、前世はみんな人間でした」と、一気に語った。三木は、話があまりにも突飛過ぎて信じられなかった。

「信じられないのも無理はありません。でもこれは事実です。現に私がこうやって人間の言葉を喋っているではありませんか」と、イワナは語り、沈黙した。

「君は人間に戻りたいとは思わないの？」と、三木はイワナに尋ねた。

「生まれ変わったものは、人間には戻れないのです」と、イワナが答えた。

「親御さんに、君が生きていることを知らせたいと思わないの？」。三木は再び尋ねた。

「いいえ、決して。両親は私のことは疾くに諦めています。今更、こんな変わり果てた姿を見せても、一層悲しむだけです」と、イワナはきっぱりと答えた。

三木は、毛鉤をイワナの口から外してやり、「それでは、また淵に戻りなさい」と、イワナに声をかけた。

「有難うございます。お礼に、ひとつ贈り物をしたいのです。それは、人の運命を予知する能力と、人の本性が分かる能力の二つですが、このうち、どちらかをお選び下さい」と、イワナは言った。

三木は、イワナの御礼など当てにしていなかったし、イワナの言葉には半信半疑だった。それでも、三木は人間の運命が予め分かってしまえば、その後の人生がどれだけつまらないものになるかと思った。

「どちらかと言われれば、人の本性が分かる能力の方が良いね」と、三木は答えた。

「では、そうしましょう。あなたは、これから人の本性を見抜く能力が身につきます。どうぞ、それをあなたのこれからの人生に生かしてしていって下さい。それでは、失礼します」と、イワナはそう言って静かに淵の底へ去って行った。

三木は、長い間呆然とその場に立ち尽くしていた。気がつくと、陽が傾き、辺りが暗くなっていた。三木は慌てて道路に戻った。

その後、どのようにして国道に戻ったのかはっきりと覚えていない。車を運転しながら、帰宅を急いだが、今日一日の出来事の総てが、夢だったように思われた。

（二）

東京に帰った翌日から、三木はまた即物的で、慌しい日常を送っていた。帰宅してからも、あのときのことは鮮烈な記憶として残っていた。彼はしばらくイワナを釣りに行く気がしなかったので、近場の渓流でヤマメを釣っていた。時々、イワナの≪人間の本性が分かる能力≫という言葉を思い出したが、そんな能力が身に付いたとはとても思えなかった。相変わらず、上司の性格や、同僚の本音が掴めなかったし、そんな能力なんてある筈がないと、そのうちそのことは忘れてしまった。

三木は東京郊外の、駅から徒歩10分くらいの六畳一間のアパートに住んでいる。駐車場が付いているからそのアパートを選んだのである。実家は近くにあるのだが、30歳になったとき、さすがに実家に住み続けるのは居心地が悪くなったのでアパートに引っ越したのである。

　三木はまだ独身である。昔なら、何処か欠陥があるのではないかと疑われかねない年齢だが、今は誰もそんなことは言わない。三木には付き合っている女性が二人いる。子供ができたから結婚すると言うような見っとも無い真似はしたくないと思っていたので、あまり深い付き合いではない。しかし、そろそろそんな話が有っても、と言う雰囲気になっていたが、三木はどちらを選ぶか決めかねていた。

その一人、名前を五嶋裕子と言い、年は33歳、練馬の大地主の娘で、三木の取引先に勤めているＯＬである。美人で、機転が利き、頭の良い女性である。親は娘がなかなか結婚しないのでやきもきしている。ある日、買い物をして食事をしようと、三木は裕子と銀座で待ち合わせをした。6月の夕方で、夕暮れまでにはまだ間があった。三木は約束より少し早く着いて、何気なく角のビルのショーウインドウを覗いてみた。ショーウインドウに映る光景を見て、三木は腰を抜かさんばかりに驚いた。

普通の人間に混じって、異形のものたちが大勢闊歩しているのが映っている。大抵は、豚や猪や、猿や、狼などの顔をした人間であるが、中には、蛇やトカゲなどの爬虫類、背中に蝙蝠の羽根を付けたり、細長い尻尾の生えたもの、頭の後ろにも顔のあるもの、角の生えたもの、長い舌を持ち、その先が二つに割れたものなどがいた。異形のものは、大勢歩いている群衆の大半を占めていた。三木は、その光景を見て、これは悪い夢に違いないと思った。

涎を垂らした大きな豚顔のものが、背後に近づいてきた。はっとして三木が振り返ると、そこには若い、背の高い、ブランド物の背広をぱりっと着こなしたハンサムな男が歩いていた。三木がショーウインドウに視線を戻すと、豚の後頭部が映っていた。

顔や体中に、ハリネズミのように針を生やした猿の顔をした女が三木に近づいて、「敏彦さん」と声を掛けて来た。三木がぎょっとして振り返ると、そこには笑顔を浮かべた裕子が立っていた。

「どうなさったの、変な顔をして」と、裕子が尋ねた。

「いや、ちょっと考え事をしていて」と、三木は慌てて答えた。

それは、鏡を見たときだけに起きる現象だった。レストランの洗面所の中でも、鏡に映った中年男が、馬の顔をしていた。これが、あのイワナの言った≪人の本性が分かる≫と言うことなのかと、思い当たった。三木は、レストランで、裕子とどんな話をしたのか、何を食べたのかさえ、気もそぞろで、何も覚えていなかった。

その後、裕子とのデートの約束を2回続けてすっぽかしたら、気位の高い裕子は三木から離れていき、会社も辞めてしまった。

三木の付き合っているもう一人は、老舗の佃煮屋の娘で、畑中真佐子と言い、三木の学生時代のテニス･サークルの後輩で、30歳の女性である。器量は十人前だが気立てが良く、よく気のつく娘である。

三木はその後また銀座で、今度は真佐子と待ち合わせをした。今ではショーウインドウにどんな魑魅魍魎の姿が見えても三木は驚かなかった。非常な美人が背後から近づいて、三木に声を掛けた。三木が振り返ると、ニコニコ笑っている真佐子が立っていた。いつもの顔の真佐子である。

その後、三木は真佐子と結婚し、人並みに平穏な結婚生活を送っている。何年か過ぎると、鏡には異形のものたちの姿は映らなくなった。（2013/12/8）