渓流幻想

予期せぬ出来事

柳原　釣童

ある年の四月の中旬、私は奥武蔵の高麗川を訪ねた。高麗川で釣るのはその時が初めてだった。

その年は三月の渓流釣り解禁の当初から、例年になく好調で、各地の渓流でドライ・フライにヤマメやアマゴが盛んにヒットした。

伊豆に行くつもりだったが、寝過してしまい、予定を変更して奥武蔵の名栗川へ行こうと車を走らせた。名栗川に着いたが、解禁後何度かそこで釣りをしていることもあって今一つ気乗りがせず、ふと、山一つ隔てて名栗川と並行して流れている高麗川で釣ってみたくなった。天目指峠を越え、南川という高麗川の小さな支流の渓沿いの道を下るとすぐに高麗川に出た。それにしても、天を目指す峠とはなんと素敵な名前だろう。

流れの様子を見ながら、高麗川に沿って走っている国道299号線を正丸峠方向に上っていった。埼玉県の南西部を横断し、秩父市を抜けて長野県の佐久町に通じるこの国道は、交通の要衝となっており、大型のトラックが轟音を発しながら黒煙を吐き、観光客の乗用車がひっきりなしに猛ピードで行き交っていた。

正丸峠に着いた。トンネルに出入りする車の列が、巣穴をせわしなく出入りする蟻のように見えた。

トンネル直下の渓は狭く、水量もなかったので引き返し、西武鉄道秩父線正丸駅の少し上手で車を駐めて渓を覗いてみた。渓を渡る小さな橋が見え、橋から小径が、逆のくの字型を描いて崖を這い上って足下まで来ていた。橋の向こうには農家が数軒あって、一番手前の農家の庭先には、遅咲きの白梅や、濃い紅色の桃の花が、また、道端や岸辺には白い水仙の花が咲いていた。周りには山並みが連なり、杉の林の黒ずんだ緑の塊と、芽吹いたばかりの樹々の淡い緑の塊が不規則に並んで山肌に抽象画を描き、点々と咲いた山桜の白い花が、その絵にアクセントを添えていた。

釣りの支度をして渓へ降りた。今までの車の騒音が嘘のように消えた。排気ガスの臭いは梅の花の香りに変わった。

その年の渓流釣りの好調さを裏付けるように、小型ながらヤマメが次々とヒットした。七百米ほど釣り上がって、いよいよ川幅が狭まりロッドを振るのが難しくなったので、再び国道へ戻った。

車で国道を下り、南川と高麗川の出会い付近まで戻って車を駐めて、そこからまた釣り始めた。この辺りは川幅も広く、釣り人もかなり入っているようで、魚はスレていた。それでもポツポツとライズがあり、二十センチを越える中型が混じった。

しばらく釣りあがると、渓の左手（右岸）がコンクリートの高い護岸で、大きく右側に湾曲しているところがあった。流れが曲流してぶつかる護岸の基部に大きな岩があって、その下が奥深く抉れていた。必ずいる、それもかなりの大物が！私は直感的にそう思った。

私はその岩の下を狙って慎重にキャストした。岩と水面の間隔が狭すぎて、なかなかフライがそのスポットに入らない。上流からフライを流し込もうとしても、岩の手前に強い流れがあって、フライが穴の奥まで入って行かない。五、六回トライして、やっとフライが岩と水面の間の僅かな隙間に吸い込まれた。次の瞬間、岩の下の暗い穴の中で白い飛沫が上がった。合わせた。掛かった。私は即座に抜き上げた。二十七センチを越える良型のヤマメが、河原の小石の上をバタバタと跳ねた。

突然、頭上でパチパチと手を叩く音がした。はっとして見上げると、高い護岸の上の、国道のガードレールの向こうに、リュックを背負った幼い子供と、若い父親とおぼしき二人連れのハイカーが、私を見下ろしてニコニコと笑って拍手をしていた。

「魚は何ですか」

「ヤマメです」

私はヤマメをリリースしながら答えた。

「お上手ですね、この辺りは釣り人やハイカーが多いから難しいでしょう」

若いハイカーは素直に褒めてくれた。

私は岩陰のヤマメに夢中で、そのハイカー親子が通りがかったのに全く気づかなかった。その親子は、私の釣り姿を見て足を止め、静かに息をひそめて、私の釣りの一部始終を見ていたに違いない。

全く予期せぬ出来事だった。不意を突かれて面食らったが、私はその父親の率直な態度が好ましく感じられ、嬉しかった。（1994年10月）