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柳原 釣童
長年釣りを続けていると､時には不思議な事に出会うことがある。
三十年ほど昔のことになるが､私がフライ・フィッシングを始めて二､三年経った頃だった。
八月に入ったばかりで､もうすぐ夏休みというある日の昼休み、私は当時勤めていた会社の同じ課の後輩のＴに声を掛けた。
｢夏休み､Ｋ村のＣ川に釣りに行くか？｣
｢いいですね､是非行きましょう｣
Ｔは即座に同意した。Ｔは､私より五歳年下で､私に刺激されてちょうどその年にフライ・フィッシングを始めたばかりだった。我々がＣ川の釣行計画の話で盛り上がっていると､傍で我々の話を聞いていたＦとＹが､面白そうだから我々も連れて行ってくれと言い出した。ＦはＴの一年先輩､ＹはＴの一年後輩である。
Ｔの車に四人が同乗してＫ村に着いたのは午前十時を過ぎていた。Ｋ村は周囲を山に囲まれ､細長い和船の底のような細長いこじんまりした盆地の中央を、蛇がくねるようにＣ川が流れていた。盆地のあちこちに農家が点在しているのが見えた。この辺りの農家は､主として高原野菜の栽培で生計を立てているようで､裕福な村という評判である。
釣り未経験のＹにはエサ釣りの仕掛け､同じく未経験のＦには小型のスピナーをつけたルアー仕掛けを待たせ､私とＴはフライ・フィッシングで釣ることにした。Ｃ川の河原に下りて､私はＹに餌の流し方､浮子（うき）代わりの目印の見方､餌の川虫の取り方などを一通り教え､Ｆにはスピナー（仏・メップス社製のアグリア・ゴールド、4グラム）の投げ方（キャスティング）と、ルアーの引き方（リーリング）を教えた。その間Ｔは､少し離れたところでフライを投げていた。Ｃ川は川幅があり､水量も多いので､四人が思い思いの釣りをしてもお互いに邪魔になるようなことはなかったのである。
1982年の二度にわたる台風で､大きな被害を受ける以前のＣ川は､訪れる釣り人も少なく､イワナや､放流されたヤマメ､アマゴの数は多かった。
村役場のある集落を抜けると､幅広く流れていたＣ川は､やがて狭まった両岸に圧縮されて流れが太く速くなった。落差のある急流を遡ると､切り立った両岸に抱かれるように大きな深い淵が出現した。
私は仲間達とはなれて､淵の左岸の切り立った崖の上に立って大淵を見下ろしていた。対岸は切り立った崖が立ち上がって､遥か山の中腹に達していた。大淵は青黒い水を湛えて静まり返り､どれほど深いのか見当もつかなかった。私が立っている所から水面まで5〜6ｍはあるだろうか､崖には手掛かりになるようなものは何も無く､水面に近づくことは出来そうもなかった。
真夏になると､魚の多くは餌を求めて瀬に出て行ってしまい､淵に残っている魚は､稚魚か､よほどの大物に限られるようだ。私は､夕方薄暗くなれば､もしかしたら大物がライズするかも知れないと思った。
午後四時に全員集合した。それぞれまずまずの釣果があり､初心者の二人は､初めての釣りにもかかわらず型を見ることが出来て満足そうだった。とりわけＦは､スピナーで27cmのヤマメの大物を釣り上げて大喜びしていた。いざ帰ろうというときになって､普段冷静なＦが珍しく興奮して､一泊してもう一日釣りたいと言い出した。
折から夏休みと言うこともあり､行楽や避暑の客でどの宿もいっぱいだった。二軒の旅館と五軒の民宿に断られた。我々の困り果てた様子を見て､最後に訪ねた民宿の女将が､お寺さんがやっている民宿があるから､そこでよかったらと紹介してくれた。
｢民宿竜ヶ淵｣というのがその民宿の名前であった。紹介してくれた民宿から連絡が行ったらしく､愛想のいい女将さんが玄関で待っていた。お寺さんが経営しているとのことで､お寺の本堂か､宿坊を開放して客を泊まらせているのかと想像していたのだが､予想に反して宿泊客向けに新しく建てられた、二階建ての立派な建物で､部屋数も五､六室はありそうだった。民宿の建物の右手奥に､立派な本堂が見えた。民宿の玄関を入ると､右手が台所となっていて､中では近所の農家の主婦と思われる年配の女性が三人､忙しく立ち働いているのが見えた。
我々は玄関を入ってすぐ左手の大広間に通された。遠くの方で､小学生のグループと思われる子供達の騒ぐ声がした。
昼間たっぷり掻いた汗を風呂で流して、早目の夕食をとった。ビールで祝杯をあげて、今日の釣果を話し合って歓声を上げていると､突然宿の主人が､鴨居に頭をぶつけないように身を屈めながら､部屋に入ってきた。｢入道｣と言う形容がぴったりの巨漢で､白い作務衣を着ていた。
お坊さんは部屋に入って坐るなり、いきなり野太い声で説教を始めた。
｢あなた方は釣りに来られたのかね？｣
｢はい｣と､私が答えた。
｢皆さんまだお若いのに､釣りのような殺生な真似はお止めなさい。魚は魚なりに子孫繁栄のために､一生懸命生きているのに､それをただの娯楽の為に釣って殺すなど以ての外です。そんなことを続けていると､終いには罰が当たりますぞ｣
私はつくづくとそのお坊さんを眺めた。五十年配の､容貌魁偉と言おうか､四角な顔で､眉毛はほとんど無く､眼はぎょろりと大きく､唇は分厚かった。別に怒っている訳でも無さそうだが､にこりともせず､真剣で迫力があった。私の脳裏に､とっさに｢異形｣と言う言葉が浮かんできた。顔も､頭も､はだけた胸もびっしょりと汗を掻いていたが､肌の色が妙に青白いのが気になった。
お説教は延々と続いた。我々は互いに顔を見合わせ､胸の内で､変な民宿に泊まったものだと思っていた。我々は､下手に逆らって､やっと見つけた宿から放り出されるのを恐れて､神妙にお坊さんの説教を聴いていた。
やがてお説教が終わり､お坊さんが出ていった。私は､説教の間も､昼間見たあの大淵のことが目の前にちらついて仕方がなかった。
ＦとＹは､お説教が効いたのか､すっかり意気沮喪してしまい､黙り込んでビールを飲んでいた。日没までには､まだ間があった。私はＴを誘って民宿を抜け出した。お坊さんはどうやら外出したらしく､本堂はひっそりと静まり返っていた。
お寺のすぐ裏手近くに､昼間目をつけたあの大淵があった。昼間､大淵を見ていたときには、近くにこんな大きな寺があるのに気がつかなかった。後で聞くと､この大淵は｢竜ヶ淵｣と呼ばれているそうで､民宿の名前はこの淵にちなんで付けられたものらしい。
淵を下りるルートは、やはり見つからなかった。Ｔはこの淵で釣るのを諦め､下流の瀬の方へ下って行った。私は仕方なく､高い崖の上から竿を出すことにした。ロッドは7.5フィートの＃５､リーダーは､大物がかかっても抜きあげられるように3Ｘ、9フィートを結んだ。辺りはすっかり暗くなり､水面にホワイト・ウルフの＃10が辛うじて見えていた。
フライの周囲で波紋が起き､白い飛沫が上がった。一呼吸置いて合わせると､がっちり鉤掛かりした。今まで経験したこともないような強烈な引きで､魚は淵の底へ底へと突進して行った。下手をすると､こちらが淵の底へ引きずり込まれるかも知れないと､得体の知れない恐怖を覚えた。私は､崖の上でバランスを崩されないよう､必死に魚の引きに耐えた。崖の途中には､立ち木があったり､岩が突き出ていたりするので､それらが邪魔になって､掛けた魚を淵尻へ誘導することが出来ない。強引に抜き上げるしかないのだ。遠くで､私のただならぬ動きを見て､Ｔが駆けつけてきた。
漸く魚が水面に姿を現わした。イワナだ！それも今まで見たことも無いような､50cm近い巨大なイワナだ。私は竿先を思い切り下げて､余分なラインをリールに巻き取り､反動をつけて思い切り抜き上げた。上げる途中、イワナが激しく体をくねらせ暴れたので､３Xのリーダーがイワナの重みに耐え切れず､バチッと大きな音を立てて切れた。イワナは水面近くの岩棚にぶつかって鈍い音を立てると､もんどりうって水面に落ち､ドボンという音と共に大きな水飛沫が上がった。辺りはすっかり暗くなり､水面に横たわった巨大イワナの白い腹だけが､夜目にもはっきりと見えていたが､やがてイワナはヨタヨタと泳ぎ出し､暗い水中に姿を消した。
一部始終を目撃していたＴは、
｢惜しかったですね！｣と､私にかすれた声をかけた。
翌朝､我々は大勢の人声や、人々の走る足音で目を覚ました。救急車や､パトカーのサイレンの音も聞こえてきた。我々は何事が起きたのかと飛び起き､外に出た。
近くにいた村人に話を聞くと､河原でお坊さんが頭から血を流して死んでいるという。お坊さんは､村人に畏敬されていた名士であり､Ｋ村始まって以来の大事件だった。我々は大急ぎで河原に駆けつけた。お坊さんの亡骸は､簡単な検死を終えて既に救急車に運び込まれた後だった。
警察では､酔っ払ったお坊さんが酔いを醒まそうとして､崖の上で風に当たっているうちに､誤って足を滑らせ､淵に転落して頭を打って死んだのだろうと推測していた。ただ､お坊さんが口に毛鉤を咥えていたのが､どうにも訳が分からないということだった。
私は､全身に冷水を浴びせられたように､総毛が逆立つのをはっきりと感じた。
我々は､もう釣りどころではなくなって､荷物をまとめて早々に引き上げた。
私は､その後二度とK村に足を踏み入れたことは無いし､そのときの話は､我々の間では､タブーとなっている。（2002/4/25）
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