渓流幻想

黒い岩

柳原　釣童

長年釣りを続けていると､時として不思議な出来事に出会うことがある｡

昨年の五月中頃、私は神奈川県と山梨県にまたがるＡ川に釣りに出かけた｡この日は､オホーツク海からの北東気流が入り､私の住んでいる八王子の上空は陰鬱な雲が低く垂れ籠め､肌寒く今にも雨が降り出しそうであった｡私は､山梨方面なら神奈川との県境の山々に東からの風が遮られて晴れているに違いないと思い､昼食を済ませて出かけた｡

山梨県に入ると､予想通り雲が切れ晴れ間が見えていた｡Ａ川は夕方狙うことにして､私はＡ川の下流に流れ込んでいる支流に入ってみることにした｡

この支流は､古くから渓流釣り場として有名であったが､今まで私はこの支流には足が向かなかった｡あまりにも小さな支流で､春先の解禁の一時期以外たいした釣りは期待出来ないと思っていたからである｡しかし､私の長い釣り遍歴の結果、近郊のめぼしい釣り場を釣り尽くしてしまい、釣り残した渓としてこの支流が残っていたので覗いてみる気になったのである｡

本流に架けられた橋を渡ってこの支流に通じる山道を車で上って行ったが、道は支流から離れていてなかなか釣り場に近づくことが出来なかった｡漸く､道が谷のすぐそばに近づいたときには､釣り場の核心部の半分は通り過ぎてしまっていた｡道路脇に駐車スペースを見つけ､車を降りて谷を見下ろすと､運良く渓へ降りる踏み跡が見えた｡私は早速釣り支度をして踏み跡を降りて行った｡降りたところは水路に沿ってつけられた小径で､上流を見ると小さな取水堰が見えた｡私はその水路脇の小径を辿って堰の上に出た｡

水量はまずまずだったが､頭上に鬱蒼と生い茂る木々が､まるでＵ字溝に蓋をするように陽射しを遮り､辺りは薄暗く不気味な雰囲気で､何故だか背中がぞくぞくした｡私は気を取り直して釣りを始めた｡釣り始めてすぐに､クイル・ゴードン＃14にかなり型の良いヤマメがライズしたが､食いが浅くヒットしなかった｡釣り人が多く入るのか､非常にナーバスな感じだった｡その後､ポツリ､ポツリと型は不揃いながら飽きない程度にヤマメがヒットしたが、釣っている間中背中がぞくぞくする感じが消えなかった｡三時間ほど釣り上がると､護岸が現われ川幅が狭くなり、頭上が開けて周囲が明るくなった。それと同時に当たりがぴたりと止まってしまったので納竿して､すぐ前方に見える小さな橋の袂から道路に上がった｡川の両岸はきれいに耕された田畑が広がり､遠くに農家が点在しているのが見えた｡車に戻って時計を見ると､午後五時少し前になっていた｡これから本流に車を走らせれば､十分イブニング・ライズに間に合う時間だった｡

Ａ川の釣り場に着いた｡私は、夕暮れ時に丁度狙いの場所に着けるように時間と距離を見計らい､目当てのポイントの300mほど下流から入渓した｡入渓した場所は道路のすぐ脇であったが､遡るに連れて渓は道路から離れていった｡この時期になると､釣り人の多い山梨の渓のヤマメは極度に用心深くなり､日中は殆どライズしなくなる｡

日が傾き､夕闇が迫る頃､漸く魚の食いが立ってきた｡流れの上で､盛んにカゲロウが舞っていた｡竹林や､カエデなどが密生して両岸に壁を作っている辺りからが､今日のお目当てのポイントである｡この辺りは過去に何度も釣っていたので､仮令真っ暗になっても道に迷うことは無い｡ポイントを過ぎると小さな橋があり､そこから小道がついていて、県道まで戻ることができるのである。小さな落ち込みの肩や､流れがカーブする崖の際などから次々に良型のヤマメがヒットした｡

いよいよ辺りが薄暗くなって水面上をトビケラが翔び交い始めたので、フライをエルクヘアー・カディスに取り替えようとフライを手にとって何気なく上流を見ると､30ｍほど先の岸辺に､流れを覗き込むように上半身を前に傾けて座っている人影が見えた｡辺りはもう殆ど真っ暗であったが､その闇の中に異様に黒いシルエットがくっきりと見えた｡こんな時間に誰だろうと怪訝な感じがして､その人物を観察した｡頭がお地蔵さんのように丸く、腕を胸の前で組んでじっとしていた｡何だか非常な年寄りのような気がした｡私は釣りの手を休めてその人物を凝視した｡その漆黒の人影は先ほどから座ったままの姿勢で全く動く気配が無い｡｢何だ､ただの岩か｣。今まで何度もここで釣っていたのに､こんな岩があることに今まで全く気がつかなかった｡私は岸辺の岩が、夜目に人の形に見えたものと思い､ほっとした｡

次の瞬間､その人影の腕がさっと水面に伸びた！夜目にもはっきりと暗い水面に白い水飛沫が上がり､彼の手の中で白い大きな魚が暴れているのが見えた｡彼は捕まえた魚をそのまま口のところに持っていった｡

私は､ぎょっとしてそのまま立ち竦んでしまった。心臓の動悸が激しくなるのが自分でもよく分かった。その影は再び動かなくなった｡どのくらい時間が過ぎただろう｡辺りはしんと静まり返り､風さえ吹かず木の葉一枚動いてはいない｡私は恐る恐るその人影に近づいて行った｡近づいてよくよく見ると､それは大きな黒い岩であった｡横から見ると人の形に見えるが､後ろから見ると結構幅が広く､人の形にはとても見えない｡｢何だ､錯覚か｣。私は､昼間から薄暗いところばかり歩いていたので臆病風に吹かれ､ある筈の無いものが見えたに違いないと思って苦笑した｡

私は､その岩の横に立って､首を伸ばして岩の頭部を覗き込んだ｡頭部の半分は斜めに欠けており､真横から見なければとても丸い頭の形には見えなかった｡顔の下部に､一筋の深い裂け目が入っていた｡次の瞬間､私は言葉を失った｡岩の裂け目の周りには､夥しい細かい魚の鱗が付着して怪しい光を放っていた！（2005/6/20）