フライを使った渓流釣り
〜梓川支流・奈川のイワナ〜

〜梓川支流・奈川のイワナ〜

文／柳原釣童　写真／村瀬正弘

私がはじめてヤマメを釣ったのは確か大学に入学した年だから､今からもう40年以上も昔のことになる。釣った渓は奥多摩の日原川支流・小川谷だった。高校生の頃から多摩川や秋川で清流釣りをして､ヤマベ（オイカワ）やハヤ（ウグイ）を釣っていたので､初めて渓流に入っても､たった2尾とは言えヤマメを釣ることが出来たのだろう。

当時はまだフライ・フィッシングなどと言う釣りは世間一般には知られておらず､私も勿論その日は餌釣りをしていた。2枚の小さな、白い鳥の羽根の根元を結んで､双葉が開いたような形にした目印を､道糸の途中にゴム管で取り付け魚信を取っていた。

夕方になり辺りが暗くなってきた。切り立った両岸が狭まり､川幅一杯に流れる渓を､私は川通しで遡った。私は小さな淵の淵尻に立ち､淵の中央付近に投げ込んだ餌をゆっくりと下流（手前）に流していた。小さな目印が､白い蝶々のように､暗い水面上を僅かに上下しながら舞っていた。そのとき､突然水面がはじけて､白い魚体が目印めがけて真っ直ぐに飛び上がったのである。

予想もしなかった展開に､私は我を忘れてその光景を眺めていた。ヤマメはその後何回もその目印に飛びついてきた。その時､私はヤマメが夕方になると、翔んでいる昆虫を狙うものだということを初めて知って､目印に鉤をつけたらヤマメが釣れるのではないかと思ったのが､擬餌鉤について興味を持ったきっかけだった。

1960年代の後半になって､釣具店の店頭にフライ・フィッシングの用品が陳列されるようになり､新し物好きの私はすぐにフライ・フィッシングに飛びついた。釣具の説明をしてくれた釣具店の主人も、実際にはフライ・フィッシングをしたことは無いそうで､私はジム・グリーンのキャスティングに関する小冊子を頼りにキャスティングの練習を始めた。

フライ・ロッドを持って前記の小川谷や､同じく日原川支流の川乗谷､倉沢谷､多摩川支流の秋川や､大丹波川､海沢､越沢など､餌釣りで通い慣れた渓に入って､周囲のブッシュと格闘しながらフライ・フィッシングを始めたのである。餌釣りで渓流釣りを始めた私は､竿をフライ・ロッドに持ち替えても､狭い渓流で釣ることに全く違和感を持たなかった。

私のフライ・フィッシングの主なフィールドは､こんな訳で落差のある普通の渓流である。無論私は､山梨県の忍野の桂川とか､奥日光の湯川のようなスプリング・クリークで釣りをしない訳ではない。それどころか､1970年代の10年間､私は解禁当初､忍野には毎週のように通ったものである。しかし私は､根が渓流釣り師なので､渓流のポイントの方が自分には分かり易いこと､渓流の釣り場が身近にいくらでもあることなどの理由で､渓流に行くことが多いのである。私のフライ・フィッシングは､一言で言えば､フライを使った渓流釣りである。

渓流における私の標準的なタックルは､7．5フィート､＃4のロッド､同じく7．5フィート､４ｘのリーダー､４ｘ〜５ｘ､40センチのティペットである。ロッドの調子は､ショート・レンジのポイントを狙うことが多いので､手首だけでもキャストできる先調子のものを使用している。

梓川支流・奈川のイワナ釣り

30年来の釣友である写真家の村瀬さんと二人で､この梓川の支流を訪ねたのは7月の末だった。夜来の雨もすっかり上がり､水色も良く､水量もさほど増えているようには見えず､釣りには絶好のコンディションに思われた。

この渓は下流に大きなダムがあり､上流は二股に分かれていて､我々は峠を越えて左股（支流）の方から渓の様子を見ながら下って来たのである。ダムのインレットのすこし上手の民家で入漁券を購入し､そこから500ｍほど上流にある砂防堰堤の上から入渓した。

堰堤の上は土砂が堆積し､だだっ広い河原が拡がっていた。河原の叢や潅木の向こうに広いプールが見えた。河原をゆったりと蛇行する3本の流れが､思い思いの方向からそのプールに流れ込んでいた。以前行ったことのあるニュージーランドの高原を髣髴させ､私は思わず見とれてしまった。

｢釣れたよ！｣と､遥か上流で村瀬さんの声がした。駆けつけると良型のイワナが釣れていた。そこは流れが3本に分かれる前の水量豊かな本流だった。私はこういう見通しの良い瀬の流心でイワナがヒットするということは､先行者がいないという証しで､今日はきっと良い釣りが出来るに違いないと思った。

村瀬さんの釣り姿をカメラに収めて､さあこれからという時になって､川の水が白く濁り始めた。｢嘘だろ？｣と思ったが、濁りはますます強くなり､水は白から茶色に変わった。釣り始めてからまだ20分も経っていないというのに！上流の空を見上げても雨が降っている様子は無く､河川の改修工事しか考えられなかった。

我々はその工事箇所の上流に出たいと思い流れを遡った。泥濁りの川を1時間以上歩いても工事箇所に達することは出来なかった。岸辺に釣り人の踏み跡を見つけた。我々は一旦道路に上がることにしてその踏み跡を辿り、漸く道路に出ることができた。

我々は歩いて上流に向かうのを諦め､車を停めた地点に引き返した。途中で高校生と思われる少年に出会い､河川工事について尋ねてみた。工事箇所は､この川が2本に分かれた右股（本流）の500ｍほど上流であること､普段は早朝から工事をしているのだが､今日は明け方まで雨が降っていたので､工事の開始が遅れたことなどを話してくれた。

昼食を済ませて､我々は右股沿いの道を上って行った。途中に河川改修工事の現場があった。大規模な工事で､今流行の親水公園を造成しているようで､ショベルカーなどが忙しく走り回っていた。

工事現場から１ｋｍほど上った辺りで車を停め､入渓した。この辺りは､下流の濁りを避けた釣り人がよく歩いているらしく､イワナの魚影は薄かった。暫く遡っていると､渓に落差が現れ､釣り場の状況が好転した。

右岸の立ち木の枝が伸びて水面に影を落としていた。上流に向かって明るい空が開け､水面は空の光を反射して光っていた。私はフライを逆光に強いクイル・ゴードン＃12に取替え､瀬の流心にキャストした。クイル・ゴードンの黒いシルエットが逆光の水面にくっきりと浮かんで見えた。フライの周りの水面が僅かに揺れたように思われた次の瞬間､鏡が粉々に砕け散ったように水面が乱れて､飛沫が上った。すかさず合わせると､やや痩せた25ｃｍのイワナがヒットした。考えてみれば､このイワナが私の本日第１号の獲物だった。

その後､ポツリポツリと長い間隔を空けて､同型のイワナがヒットしたが､それ以上粘ってみても、あまり大型は出そうも無かったので､潔く納竿した。

二度目に入渓した右股は､穏やかな本流と違って､落差のある､障害物の多い山岳渓流だった。河川改修工事があって、偶々この渓に入ってしまったのだが､自分の大好きなタイプの渓流で釣ることが出来て､釣果はともかく､内心大いに満足したのである。

（‘01年2月、雑誌「Gijie」）